分子標的薬の犬への適応と効果
分子標的薬と従来の抗がん剤の根本的違い
分子標的薬は、従来の抗がん剤とは全く異なるアプローチで治療を行います 。従来の抗がん剤は、分裂が盛んな細胞すべてに対して手当たり次第に攻撃を仕掛けるため、がん細胞と正常細胞のどちらが先に死ぬかという我慢比べのような治療でした 。
参考)犬や猫の癌治療で使用する分子標的薬について – <コルディ研…
一方、分子標的薬が狙うのは、がん細胞に多く発現している酵素タンパクなど特定の分子です 。病気になった細胞(腫瘍細胞など)にのみ働きかけることで、正常細胞へのダメージを軽減でき、副作用が軽度だといわれています 。この特性により、外科療法や化学療法、放射線療法の適用されない高齢の患者にも使用できることが最大のメリットです 。
ペット業界では、特に犬の肥満細胞腫で使用されることが多くなっています 。犬の肥満細胞腫では、c-kitという遺伝子の異常により肥満細胞の無制限増殖が起こり肥満細胞腫が発生します 。このkitの働きを抑制する分子標的薬を使用することで、再発・転移を抑制できる可能性があります 。
犬の肥満細胞腫に対する分子標的薬の効果
犬の肥満細胞腫は皮膚腫瘍の中で最も一般的なものの一つで、全体の約16~21%を占める重要な疾患です 。現在使用されている主要な分子標的薬として、イマチニブ(グリベック)、トセラニブ(パラディア)、マシチニブ(マシベット)があります 。
参考)犬と猫の肥満細胞腫の違い
イマチニブは標的タンパクとしてKIT、PDGFR、Aclを持ち、人間では慢性骨髄性白血病の治療薬として使われているお薬です 。犬では肥満細胞腫とGIST(消化管にできる腫瘍)で使用され、主な副作用として消化器毒性(下痢、嘔吐、食欲不振など)、肝障害があります 。
トセラニブは2014年に国内発売が開始され、犬の再発した肥満細胞腫(皮膚型)の治療薬として開発されました 。イマチニブにはない血管新生阻害作用が期待されており、標的タンパクとしてKIT、VEGFR、PDGFR、Fit-3を持つマルチキナーゼ阻害薬です 。
肥満細胞腫の治療における分子標的薬の効果について、実際の症例では興味深い結果が報告されています 。ある症例では、トセラニブで維持療法を行っていたが再発し、感受性検査の結果、イマチニブに関しては90%程度の抑制効果が認められ、投与後1カ月で完全寛解し、4か月後も寛解状態を維持していました 。
犬の膀胱がんに対するラパチニブの革新的治療効果
東京大学大学院農学生命科学研究科の研究グループが、犬の膀胱がんに対して画期的な研究成果を発表しました 。HER2とEGFRを特異的に阻害するラパチニブという分子標的薬が、犬の膀胱がんに対して有効な治療法となることを獣医師主導臨床試験によって証明したのです 。
膀胱がんは犬の尿路系腫瘍の中で最も発生頻度が高い悪性腫瘍で、治療を行っても半年~1年以内に亡くなることが一般的でした 。この研究では、膀胱がんの犬を2つのグループに分け、ピロキシカム単独群と、ラパチニブ併用群で比較検討しました 。
結果は驚異的でした。ピロキシカム単独群では10%程度の犬でがんの縮小がみられたのに対し、ラパチニブ併用群では50%を超える犬でがんの縮小がみられました 。さらに重要なことは、生存期間がピロキシカム単独群と比べてラパチニブ併用群の方が2倍以上の延長が認められたことです 。
この研究では、尿に含まれるがん細胞を使ってHER2タンパク質の過剰発現とHER2遺伝子増幅の有無を調べることで、ラパチニブの治療効果を予測するバイオマーカーとなることも明らかになりました 。HER2過剰発現またはHER2遺伝子増幅を認めた症例では認めなかった症例と比べて生存期間が長いことがわかったのです 。
犬の移行上皮癌に対する分子標的薬の限界と可能性
犬の移行上皮癌は外科手術を実施しても、再発や転移が高確率で起こり、リンパ節・肺・骨・皮膚・腎臓・肝臓などさまざまな場所に転移する難治性の疾患です 。従来の治療薬として、ピロキシカム、フィロコキシブなどの非ステロイド系抗炎症剤(NSAIDS)やシプラチン、ミトキサントロン、ビンブラスチンなどの化学療法が知られています 。
近年、獣医学分野においても人と同様に分子標的薬と呼ばれる癌細胞の無限に増殖するシグナルをブロックする新しいタイプの抗癌剤が販売され、種々の固形腫瘍に有効であることが分かってきました 。代表的な薬剤としてトセラニブ(パラディア®)がよく知られていますが、残念ながら移行上皮癌に対しては際立って有効とはいえません 。
しかし、これは決して分子標的薬が移行上皮癌に無効であることを意味するものではありません。異なる標的分子を持つ分子標的薬の研究開発が続けられており、前述のラパチニブのような新たな選択肢が今後も登場する可能性があります。実際に、最新の研究では、犬の固形腫瘍に対して様々なチロシンキナーゼ受容体の発現パターンを調査し、個別化治療の可能性を探る取り組みが進められています 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11313224/
分子標的薬による治療の臨床的有用性と共存療法
分子標的薬の最大の特徴は、腫瘍を完全に消失させるよりも「臨床的有用性」を重視することです 。臨床的有用性とは、生存率が伸びたり、元気・食欲がいい状態を維持したり、腫瘍が小さくもならないが大きくもならず維持できている状態を保てるかどうかということです 。
参考)https://ameblo.jp/fujiwara-ah/entry-11973741783.html
この考え方は、従来の抗がん剤治療とは根本的に異なります。分子標的薬で固形癌が完全に治るわけではありませんが、腫瘍と一緒に共に生きていけるよう共存していくという考えで使用されることがあります 。これにより、犬のQOL(生活の質)を維持し続けることが可能になります 。
分子標的薬は手術後の腫瘍の再発を抑え、わんちゃんのQOL(生活の質)を維持し続けるための有力な選択肢となると考えられています 。特に、従来の抗がん剤治療を望まない飼い主様にとって、副作用が比較的軽度である分子標的薬は重要な選択肢の一つとなっています 。
さらに、分子標的薬は投与前に薬剤の感受性を確認できるという利点もあります 。これにより、個々の犬の腫瘍に最も適した治療法を選択することが可能になり、治療効果の向上と副作用の軽減が期待できます。実際の臨床現場では、このような個別化医療のアプローチが重要視されており、将来的にはさらに精密な治療選択が可能になると期待されています 。