犬の腹膜炎と症状
犬の腹膜炎で見られる主な症状と行動変化
犬の腹膜炎は、腹腔内の臓器を覆う腹膜に炎症が生じる深刻な疾患です。この状態は急速に進行し、適切な治療がなければ命に関わることもあります。臨床現場では、以下のような特徴的な症状が見られることが多いです。
まず、最も顕著な症状として「腹痛」があります。腹膜炎を発症した犬は激しい腹痛に苦しみ、特徴的な行動パターンを示します。「祈りの姿勢」と呼ばれる、前足を伸ばして前に出し、お尻を高く上げるポーズを取ることがあります。これは腹部の痛みを和らげようとする本能的な行動です。また、背中を丸めてうずくまったり、お腹に触れられるのを極端に嫌がったりする様子も見られます。
その他の主な症状としては:
- 元気・食欲の消失(急激な活動性の低下)
- 発熱(体温上昇)
- 嘔吐や下痢
- 腹部膨満(お腹が張る)
- 体の震え
- 頻繁な鳴き声(痛みの表現)
- 脱水症状
特に注意すべき点として、腹膜炎が進行すると腹腔内に腹水が貯留し、お腹が膨らんで見えることがあります。重症化すると意識レベルの低下やショック状態に陥ることもあるため、これらの症状が見られた場合は緊急性が高いと考えるべきです。
日常の観察ポイントとしては、普段と異なる行動や姿勢の変化に注意を払うことが重要です。特に、突然の行動変化や痛みを示す仕草は、腹膜炎の初期サインである可能性があります。
犬の腹膜炎の進行段階と重症度の判断基準
腹膜炎の進行は一般的に急速であり、時間経過とともに症状が悪化していきます。獣医学的な観点から、腹膜炎の進行段階と重症度を理解することは、適切な治療介入のタイミングを判断するために非常に重要です。
【初期段階】
- 軽度の腹痛(落ち着きがない、腹部を気にする)
- 軽度の食欲低下
- 軽微な発熱
- 行動の変化(活動性の低下)
この段階では、飼い主が気づきにくいこともありますが、普段と異なる様子があれば注意が必要です。
【中期段階】
- 明らかな腹痛(うずくまる、「祈りの姿勢」を取る)
- 完全な食欲消失
- 明らかな発熱(39.5℃以上)
- 嘔吐や下痢の発現
- 腹部の緊張や膨満感
この段階では、症状が明らかになり、獣医師による診察が必須となります。
【重症段階】
- 激しい腹痛(触れることも困難)
- 顕著な腹水貯留
- 脱水症状の悪化
- 頻脈や呼吸促迫
- 粘膜の色調変化(蒼白化や充血)
- 意識レベルの低下
この段階では緊急処置が必要で、集中治療の対象となります。
重症度の判断基準としては、以下の指標が用いられることが多いです:
重症度 | 臨床症状 | 血液検査所見 | 腹水の性状 |
---|---|---|---|
軽度 | 軽度の腹痛、食欲低下 | 軽度の白血球増加 | 少量、透明〜やや混濁 |
中等度 | 明らかな腹痛、嘔吐 | 白血球増加、CRP上昇 | 中等量、混濁 |
重度 | 激しい腹痛、ショック徴候 | 白血球異常(増加or減少)、代謝性アシドーシス | 多量、膿性または血性 |
腹膜炎の重症度評価には、臨床症状の観察だけでなく、血液検査や画像診断、腹水の分析などの総合的な評価が必要です。特に、腹水中の細胞数や細菌の有無、生化学的性状は重症度と予後の判断に重要な情報を提供します。
犬の腹膜炎の早期発見のためのチェックポイント
腹膜炎は進行が早く、早期発見・早期治療が予後を大きく左右します。獣医師として飼い主の方々に伝えたい、日常的な観察ポイントをご紹介します。
【日常的な観察ポイント】
- 食欲の変化
- 普段の食事量と比較して急激な減少がないか
- 食べ物に興味を示さなくなったか
- 水の摂取量に変化はないか
- 行動パターンの変化
- 普段より動きが少なくなったか
- 特定の姿勢(うずくまる、背中を丸める)を頻繁にとるようになったか
- 「祈りの姿勢」を取ることがあるか
- 腹部を気にする素振り(舐める、見る)があるか
- 腹部の状態
- 腹部が膨らんでいないか(週に一度は触診する習慣をつける)
- 触ると痛がる様子はないか
- 腹部の硬さや緊張感に変化はないか
- 排泄の変化
- 便の性状や回数に変化はないか
- 排便時に痛がる様子はないか
- 尿の色や量に変化はないか
- 全身状態
- 体温の上昇(39.5℃以上)はないか
- 呼吸が速くなっていないか
- 歯茎の色が通常と異なっていないか(蒼白や紫色は要注意)
特に注意すべき警告サインとして、以下の症状が見られた場合は緊急性が高いと考え、速やかに動物病院を受診することをお勧めします:
- 急激な元気消失と食欲不振
- 繰り返す嘔吐
- 明らかな腹部膨満
- 触ると痛がる腹部
- 「祈りの姿勢」や背中を丸める姿勢
- 39.5℃以上の発熱
早期発見のためには、普段からの観察と定期的な健康チェックが重要です。特に高齢犬や過去に消化器疾患の既往がある犬では、より注意深い観察が必要です。異変を感じたら、「様子を見よう」と判断せず、早めに獣医師に相談することが、愛犬の命を守ることにつながります。
犬の腹膜炎と他の急性腹症との鑑別ポイント
腹膜炎は様々な急性腹症の一つですが、類似した症状を示す他の疾患との鑑別が治療方針の決定に重要です。獣医師が臨床現場で考慮する主な鑑別疾患と、その特徴的な違いについて解説します。
【主な鑑別疾患と特徴】
- 急性膵炎
- 共通点:腹痛、嘔吐、食欲不振
- 鑑別ポイント:
- 膵臓特異的酵素(リパーゼ、アミラーゼ)の上昇
- 超音波検査での膵臓の腫大や周囲の脂肪壊死像
- 腹水が少ないか存在しないことが多い
- 腸閉塞
- 共通点:腹痛、嘔吐、腹部膨満
- 鑑別ポイント:
- X線検査でのガス像(腸管拡張像)
- 嘔吐物に胆汁や糞便様の物質が含まれることがある
- 排便停止が顕著
- 胃拡張・胃捻転
- 共通点:急性発症の腹痛、腹部膨満
- 鑑別ポイント:
- 左上腹部の著明な膨満
- 非生産性の嘔吐努力(空嘔吐)
- X線検査での特徴的なガス像
- 子宮蓄膿症(未避妊のメス犬)
- 共通点:腹部膨満、元気・食欲低下、発熱
- 鑑別ポイント:
- 外陰部からの異常分泌物
- 多飲多尿を伴うことが多い
- 超音波検査での子宮拡張像
- 急性肝炎・胆嚢炎
- 共通点:腹痛(特に右上腹部)、嘔吐
- 鑑別ポイント:
- 肝酵素の上昇(ALT、AST、ALP)
- 黄疸の有無
- 超音波検査での肝臓や胆嚢の変化
【鑑別診断のための検査アプローチ】
腹膜炎と他の急性腹症を鑑別するために、以下の検査が有用です:
- 血液検査
- 炎症マーカー(白血球数、CRP)の評価
- 臓器機能検査(肝酵素、腎機能値など)
- 電解質バランスの評価
- 画像診断
- X線検査:フリーエアー(腹腔内遊離ガス)の有無、腸管ガス像
- 超音波検査:腹水の有無と性状、臓器の形態学的変化
- 腹水分析
- 細胞診:炎症細胞の種類と数
- 細菌学的検査:グラム染色、培養検査
- 生化学的検査:腹水中のタンパク質、グルコース、アミラーゼなど
- 特殊検査
- 造影X線検査:消化管穿孔の評価
- CT検査:より詳細な病変の評価(設備のある施設の場合)
腹膜炎の確定診断には、腹水の存在とその性状分析が最も重要です。特に細菌性腹膜炎では、腹水のグラム染色で細菌が確認されることが診断の決め手となります。また、腹水中のグルコース値が血清値より著しく低い場合や、腹水中のアミラーゼ値が血清値より高い場合は、それぞれ細菌性腹膜炎や膵炎に関連した腹膜炎を示唆します。
臨床現場では、これらの検査結果を総合的に判断し、適切な治療方針を決定していきます。
犬の腹膜炎の原因と発症メカニズム
腹膜炎の発症には様々な原因が関与しており、それぞれの原因によって治療アプローチや予後が異なります。ここでは、犬の腹膜炎の主な原因と、それぞれの発症メカニズムについて詳しく解説します。
【主な原因分類】
- 細菌性腹膜炎
最も一般的で重篤なタイプです。腹腔内に細菌が侵入することで発症します。
主な侵入経路:
- 消化管穿孔(最も多い原因)
- 異物誤飲による穿孔
- 腫瘍による壁の脆弱化と穿孔
- 潰瘍性病変の進行
- 外傷による穿孔
- 臓器の炎症からの波及
- 重度の膵炎
- 胆嚢炎・胆嚢破裂
- 生殖器系からの感染
- 子宮蓄膿症の破裂
- 前立腺膿瘍
- 手術後の合併症
- 縫合不全
- 術後感染
- 化学性腹膜炎
無菌的な化学物質による炎症反応です。
主な原因:
- 胆汁性腹膜炎(胆嚢破裂や胆管損傷)
- 尿性腹膜炎(膀胱破裂や尿管損傷)
- 膵酵素の漏出(重度の膵炎)
- 無菌性腹膜炎
細菌感染を伴わない炎症反応です。
主な原因:
- 全身性自己免疫疾患の一症状
- 腫瘍性病変(癌性腹膜炎)
- 異物反応(無菌的な異物による)
【発症メカニズム】
腹膜炎の発症と進行には、以下のようなメカニズムが関与しています:
- 初期反応
- 腹膜の炎症:刺激物質(細菌、胆汁、尿など)が腹膜を刺激
- 血管透過性亢進:炎症により血管壁の透過性が高まる
- 腹水産生:血漿成分が腹腔内に漏出し始める
- 炎症カスケード
- 炎症性サイトカイン放出:TNF-α、IL-1、IL-6などの放出
- 好中球の遊走:炎症部位への白血球の集積
- 補体系の活性化:細菌の排除と炎症反応の増幅
- 全身性炎症反応症候群(SIRS)への進展
- サイトカインストーム:過剰な炎症性メディエーターの全身放出
- 血管拡張と血管透過性亢進:全身の血管に影響
- 微小循環障害:組織への酸素供給低下