犬前立腺癌の基礎知識
犬の前立腺癌は、人間と犬だけに自然発生する非常に稀な悪性腫瘍です。全腫瘍の0.2~0.6%という発生率ですが、一度発症すると局所浸潤性が強く、転移率も高い極めて悪性度の高い癌として知られています。
組織学的には腺癌や移行上皮癌が最も多く見られ、未分化癌、平滑筋肉腫、血管肉腫の発生報告もあります。特に注目すべきは、診断時点で既に約30%がリンパ節転移、約50%が遠隔転移(主に肺や骨)を起こしているという点です。
この癌は去勢の有無に関わらず発生し、主に高齢犬(平均年齢10歳)で見られます。人間の前立腺癌がアンドロジェン依存性であるのに対し、犬の前立腺癌は精巣摘出の有無にかかわらず発生するという重要な違いがあります。
犬前立腺癌の初期症状と進行パターン
前立腺癌の症状は他の前立腺疾患と類似しているため、初期での判別が困難です。最も特徴的な症状は血尿で、これは前立腺の腫瘍組織からの出血によるものです。
初期症状の特徴 📋
- 血尿(最も多い症状)
- 頻尿と尿量減少
- 排尿時の痛みや不快感
- 軽度の元気食欲低下
進行すると、腫大した前立腺が尿道や直腸を圧迫し、より深刻な症状が現れます。血便や便秘、「しぶり」と呼ばれる少量しか排泄できないのに何度も排泄姿勢を取る行動が見られるようになります。
さらに進行すると、尿路閉塞により排尿が完全に困難となり、二次的な腎不全を引き起こすリスクがあります。骨転移が起こった場合は、癌性疼痛により歩行困難や立ち上がりの困難が生じます。
犬前立腺癌の診断方法と最新検査技術
前立腺癌の確定診断には複数の検査を組み合わせた総合的なアプローチが必要です。最初に行われる直腸検査では、前立腺の腫大、硬化、左右不対称で不整な形状を確認できます。特に去勢済みの雄犬で前立腺の腫大が認められた場合は、前立腺癌を強く疑います。
画像診断の重要性 🔬
- レントゲン検査:前立腺実質の石灰沈着を確認
- 超音波検査:腫瘍の大きさや広がりを評価
- CT検査:転移の詳細な評価が可能
確定診断には、尿道から前立腺に細いカテーテルを挿入して組織を採材する前立腺生検が必須です。また、最新の診断技術として、BRAF遺伝子検査とHER2遺伝子検査が注目されています。
BRAF遺伝子変異検査は従来から行われていましたが、感度が70%程度にとどまるため、HER2遺伝子コピー数異常検査と併用することで、より精度の高い診断が可能になりました。犬の尿路上皮癌・前立腺癌症例の33~35%においてHER2遺伝子コピー数異常が見られるため、診断補助として非常に有用です。
犬前立腺癌の治療選択肢とその効果
前立腺癌の治療は「根治治療(積極的治療)」と「緩和治療」に大きく分けられます。明らかな浸潤や転移がない早期の場合、根治治療として外科手術が第一選択となります。
外科治療の特徴 ⚕️
- 前立腺全摘出術とリンパ節切除
- 健康な組織も含めた完全切除
- 術後の尿失禁リスクあり
手術が困難な症例や転移がある場合は、内科的治療が選択されます。COX-2阻害薬と呼ばれる非ステロイド性抗炎症薬の投与により、生存期間の延長が期待できると報告されています。
また、モガムリズマブという免疫療法剤が前立腺癌において有用であることが報告されており、2023年現在で報告されている治療方法の中でも注目されています。
放射線治療は主に緩和目的で実施され、排便・排尿困難に対する症状緩和や、骨転移に対する疼痛緩和効果があります。
犬前立腺癌の予後と飼い主ができること
前立腺癌の予後は病期により大きく異なります。明らかな浸潤や転移がない場合の根治治療後の生存期間中央値は510日で、年単位の生存が期待できます。一方、周囲組織への浸潤や転移がある場合の緩和治療後の生存期間中央値は約200日と予後不良です。
治療別の生存期間 📊
- 無治療:約1か月
- 内科療法:約2~6か月
- 外科手術:約4~8か月
- 根治治療成功例:510日(中央値)
飼い主として最も重要なのは早期発見です。血尿や排尿困難、しぶりなどの症状が見られたら、すぐに獣医師に相談することが大切です。
定期的な健康診断、特に高齢犬(8歳以降)では年2回の検査を推奨します。直腸検査による前立腺の触診は、経験豊富な獣医師であれば比較的簡単に異常を発見できる検査です。
犬前立腺癌治療の最新動向と研究成果
近年の研究により、犬の前立腺癌治療に新しい可能性が見えてきています。特に分子標的治療の分野で大きな進歩があります。
HER2阻害剤ラパチニブは、HER2遺伝子コピー数異常を持つ症例において治療効果が期待できることが分かっています。ラパチニブとピロキシカムの併用療法を受けた場合、HER2遺伝子コピー数異常が認められた症例では、そうでない症例よりも全生存期間が長くなることが示されています。
また、多遺伝子解析による予後予測も可能になってきました。HER2遺伝子コピー数異常とBRAF遺伝子変異を同時に持つ症例では、外科手術後の無病生存期間が短くなることが判明しており、より個別化された治療計画の立案が可能です。
犬と人間の前立腺癌の類似性 🧬
- 両種とも自然発生する稀な癌
- 分子レベルでの類似点が多数存在
- 犬のモデルが人間の治療研究に貢献
興味深いことに、犬の前立腺癌は人間の進行性・去勢抵抗性前立腺癌と多くの類似点を持つため、トランスレーショナル研究(基礎研究を臨床応用につなげる研究)のモデルとして注目されています。これにより、犬の治療法開発が人間の前立腺癌治療にも貢献する可能性があります。
痛みの管理についても新しいアプローチが開発されており、骨転移による疼痛に対する放射線治療の低分割大線量照射が効果的であることが報告されています。この治療法により、血尿の消失や疼痛の軽減が期待できます。
予防という観点では、現在のところ確立された方法はありませんが、定期的な健康チェックと早期発見・早期治療が最も重要です。特に8歳以上の雄犬では、年2回の健康診断で前立腺の状態をチェックすることを強く推奨します。
前立腺癌は確かに予後の厳しい疾患ですが、医学の進歩により治療選択肢は着実に増えています。愛犬が診断を受けた場合は、獣医腫瘍科専門医と密に連携し、最適な治療プランを検討することが大切です。